きゃろです。誰しも何か問題が起きたときに、「○○がこう言ったせいで自分はこうした。」のような感じで
人のせいにしてみたり、逆に誰かにこのようなことを言われて、責任転嫁をされることは
生きていれば1回ぐらいは経験するのではないでしょうか。
私もつい最近、私のせいにされるという出来事が重なったときがありました。
誰かに私のせいだと言われている時と、
他人のせいにして言い訳がましいことを言っている時とでは立場は違いますが、
言われのないことで責任転嫁をされるのはもちろん嫌だけど、
どちらかというと誰かのせいだと責任転嫁の
言い訳を言っている時のほうが責められる側よりも、もっと心がすさんでいくような感じがします。
他人を責めているときの自分の心はもっと嫌だなと感じます。
日常生活のトラブルでは、この「責任転嫁」のシーンは、程度の差こそありますがよくあることかもしれません。
この他人のせいにするという他責の思考というものは、いつからそうなってしまったのかとふと考えさせられました。
聖書歴史にさかのぼってみると、ありました!
人のせいにする最初の出来事が聖書にしっかり書いてありました。
要約すると、神様は人類の最初の男女であるアダムとエバにエデンの園という土地と
食べるのに困らないように園の中にはたくさんの果実がなっている木を置いて、二人に与えました。
園にあるどの木からも好きなように食べてよいが、善悪を知る木からは取って食べてはならない。それをとって食べると、きっと死ぬであろう。と神様はアダム(男)に命じましたが、狡猾な蛇にそそのかされたエバ(女)はなんと神様から取って食べてはいけないと言われていた木の実をとって食べてしまいました。
取って食べてはならないという神様との約束を破ったことについて罪悪感を感じたアダムとエバは、神様にみつからないように隠れていましたが、神様にみつかり、なぜとって食べたのかを問われることになります。
創世記3:11~3:13
神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。
人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。
そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。
女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。
人類最初の他責の思考はここが起源なんだなとわかります。
最初に約束を守らなかったことについて、まずは、ごめんなさいと謝るどころか、「あの女が木から取ってくれたので」
「へびが私をだましたのです。」とやっぱり言い訳から入っていることに気づかされます。
聖書をよーく読んでみると人類の始祖は、なんと愚かなのだと気づくのですが、たどってたどっていくと
この愚かな人たちが私たちの先祖になると考えると、私たちは皆、愚か者なのかもしれません。
一度も誰かのせいにしたり、言い訳をしないで生きてきた人はただの一人もいないように思います。
先祖が責任転嫁の歴史を作ったんだから、アダムとエバのせい、遺伝なんだ!なんて言い出したら
またまた責任転嫁の上塗りになりますね。そんな責任転嫁のループに陥らないように
指摘を受けたら、言い訳じゃなく、いくつになっても素直に謝る心を持ちたいものです。
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きゃろ様
お世話になります。若い時同じような悩みを持っておりました。人間は何のために生きているのか、根源的な悩みをずっと抱えておりました。キリスト教系大学のため聖書も研究して、自分は既存のキリスト教会は違うと感じて、任意のキリスト団体に7年参加しておりました。エドガーケイシーの流れを汲むリーディングのお出来になる方でとても興味深い学びでした。しかし根本的に自分を変えることができず、さらに探求していたところアガスティアの葉、シヴァの葉に驚き、その後指導者と出会いインドに行き本物の聖者と出会いました。お話し出来る機会があればありがたく存じます。よろしくお願い致します。
マルコ様
はじめまして。コメントをいただきありがとうございます。
同じようなことを考えてこられたとのこと、同志のようでうれしく思います。
ぜひ、お会いしてお話したいですね。
個別にやり取りも可能ですし、直近であればカフェ会などで、会ってお話させていただければと思っています。ご連絡お待ちしております。