お盆

きゃろです。13日からお盆です。近所のスーパーのお花屋さんコーナーには、きれいな橙色のほおずきが、
食品コーナーには色とりどりのお供えのお菓子やお盆飾りがところせましと並べられていました。
ほおずきは、鬼灯とも書き、橙色でふっくらした形が提灯にも見えることから
霊界に旅立った肉体を持たない故人がお盆の期間にこの世に戻ってきている間は、
ほおずきの中にその魂を宿らせていると考えられているそうです。

お盆の時期は実家に帰ったりして家族とともにご先祖様をお迎えし家族団らんの場にもなりますね。
人が死を迎え、霊界へ旅立っても、お彼岸やお盆という私たちの暮らしの中でまた亡くなった方々を偲び、
身近に感じることができる風習だと思うとこんな素敵な風習がある日本に生まれてよかったなと思います。

このような風習が残っていることを考えてもやはり人間には魂というものが存在し、霊界というものが存在していることをはるか昔から認識してきたあらわれなのではないでしょうか。

私が尊敬している会長さんが、「霊界はふすま一枚で隔てられているぐらい身近なんだ」と教えてくれました。
こちらの世界から霊界は見えませんが、霊界からはこちらを見ることができるそうです。
この世に誕生して地上世界にとどまれるのは、長くても100年前後。やがて誰もが死を迎えますが
その先には霊界があるということも教わりました。
地上生活でどんなにお金を稼いでも、豪邸を建てても、豪華な宝石をたくさん持っていたとしても
霊界へは何一つ、ティッシュ一枚持っていけないのです。

年齢的には人生の折り返し地点に差し掛かりました。いつ死を迎えるかなんて誰もわかりません。
母の胎内に命が宿り、誕生するのも、そして死を迎えることも自分でコントロールすることはできません。
地上で私に与えられている責任を果たして、いつか死を迎え、その先には霊界という世界があると思うと
この地上では何かやらなければならない使命が必ずあるはずで、何か目的があるはずだと生まれてきた
意義を考えます。
霊界があると思えば、地上生活は霊界へ行くまでの準備期間であり、自分が磨きあげた魂レベルに
見合った霊界へ行くことになると聞いたので、そういう意味でも魂をちゃんと磨いていきたいと思います。

悪人のまま生きていた人は死んでも悪人なんだよと聞きました。
根性悪く、悪いことばかりしていた人がその心のまま死んだとしたら、死んで仏になったからと言って

その瞬間から自動的に良い心になるわけがない。そりゃそうだなと思いました。

自ら気づいて悔い改め、反省するのは人間の責任だからです。
一方、死ぬ間際によほど心から悔い改めるなら、その人の魂の行く先は心から悔い改めて反省した素直な
心の人が集まる霊界へ行けるということのようです。

死の間際で悔い改めた人とそうでない人がどのような末路をたどるのかということが
2000年以上も前から聖書の中で教訓として記されています。

イエス様が十字架にかかったとき、その右側と左側に二人の強盗が同じく十字架にかかっていました。

イエス様の左側で十字架にかかっていた強盗はイエス様にあなたがキリスト(救世主)なら自分を救って、自分たちも救ってみろよと悪口を言い続けました。
一方、右側の強盗は自分のやってきたことの報いを受けているのだから十字架にかかっているのは当然だとやってきたことを反省し悔い改めました。そして十字架にかかっているイエス様を見て、
あなたは何も悪いことをしていないとイエス様をかばい、神の子であることを認め、慰めの言葉をかけたのが右側の強盗でした。

そのことが書いてあるのが以下の聖句です。

ルカの福音書23章39~47
十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。
もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。
お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。
そして聖所の幕がまん中から裂けた。
そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。
百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。

世の中ではイエス様がまるで、最初から死ぬために生まれてきたかのように誤解している方が多いようです。
そんな目的で生まれてくる人間がいるでしょうか?
イエスキリストが十字架にかかった罪状は、
自分を「神の子」だと主張したということで、世を惑わす者として捕らわれ、拷問を受け、
十字架刑に処せられました。
本当に神の子だから「神の子」だと主張したのであって、他人に害を加えたわけでもなく、
嘘を言ったのでもなく、人々に多くの施しをして愛を伝えて生きてきたイエス様はなぜあんなひどい
殺され方をしなければならなかったのか。現代で言えば、完全に冤罪です。

普通の人なら文句の一つも言ったでしょう。多くの人の前で痛めつけられ、唾をかけられ、ののしられ、重い十字架を背負い、もっとも苦しい刑とされる十字架に釘で打ち付けられました。はりつけられると呼吸がしずらくなるのに、すぐには死なず、尋常ではない痛みと苦しみが数時間にもわたる最も過酷な刑なのだそうです。罪もないのにこんな目にあわされても愚痴の一つも言わずに、真意がわからずに自分を痛めつける人たちをも許してほしいと神様に取りなしの祈りを捧げながら死んでいったのがイエス様でした。これが自分だったら、我が子だったらと置き換えて考えてみたらどんな気持ちでしょうか。冤罪で十字架にかかる我が子をみつめる親の気持ちはいかばかりだったでしょうか。

死の間際までさんざん強盗をしてきた人であっても、最後の最後に自ら悔い改め、
神の子であるイエス様を慰め、受け入れたことで、死後はイエス様とともに
パラダイスに行くことができたという教訓です。
右側の強盗の信仰心なるものは、十字架にかかって死ぬ間際にイエス様を慰めたという
わずか数分程度だったのではないでしょうか。
死の間際であっても悔い改めるタイミングがある場合はこのように救われるでしょうが、悔い改めのタイミングなく死んでしまった場合は?と考えるとギリギリまで悪さをして神様を認めることもなく好き勝手していいということではないと思うのです。

ここぞというときにはきちんと気がついて神様を認め、受け入れるような素直さがあれば、本来は地獄行きのはずの強盗であっても悔い改めることでパラダイスへ行けるんだという教訓となっています。

このような教訓が記された聖書が今の時代にまで現存していること自体が神様の計らいなのだと思います。

聖書の中に記された教訓から私たちは何を学ぶべきでしょうか。

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