劇場版「鬼滅の刃」無限城編が7月18日に公開されてから、もう3か月がすぎましたね。
公開に先立ち、アニメの過去回が再放送されてました。
再放送、全部は見なかったけど、やはり「柱稽古編」の最終話でお館様こと鬼殺隊の長・産屋敷耀哉が自爆するシーンは印象に深く残りました。
人間を喰らう鬼の総領である鬼舞辻無惨を爆破するために、自邸に誘い出し、妻子を道連れに大量の火薬を使って自爆するシーンは衝撃でした。
愛するが故の怒り
妻子を道連れに自分をおとりにした作戦に、鬼である無惨が「あの男は完全に常軌を逸している」というほどでした。
漫画のストーリーですが、よくこの展開を考えるな~と思いました。
この自爆シーンの心理について、伝承文学研究者の植朗子(うえ・あきこ)さんが「AERA DIGITAL」(2024年7月10日)の記事で解説しています。
植さんはお館様の次のセリフから、この壮絶な作戦について考えています。
「永遠というのは、人の想いだ。」
「大切な人の命を理不尽に奪った者を 許さないという想いは永遠だ」
「許さない」という感情、つまり「怒り」が壮絶な作戦につながっていると分析しています。
さらに、「人の心を失った鬼と、復讐に燃える人間の狂気に、どれほどの“違い”があるのか」という疑問を呈しています。
それについては、鬼と戦うために鬼殺隊に入った隊士の人生を振り返りその動機を分析して、「他者への愛情が深いがゆえに生まれる怒り」と分析しています。
記事の原文を引用します。
鬼殺隊に「あって」、無惨には「ないもの」
耀哉の狂気の自爆に対して、無惨が「(耀哉の)妻と子供は承知の上だったのか?」と思う場面があるのだが、それを受けて、一部からは「無惨の方が人間らしい感情があり、耀哉の方が“異常者”だ」という声が上がった。しかし、本当にそうだろうか。
人が誰かのためにみずから命を捨てるには、深い深い愛情が必要だ。愛する人が殺害された時、時間がどれだけ経過しても、その怒りを持ち続けるためには、亡くした人への「愛」がいる。耀哉は鬼の被害を終わらせるという信念を貫きとおし、彼の家族は愛のために耀哉の作戦決行に力を貸した。万人には理解されないかもしれないが、そこに「人間らしい愛」があったことに疑いはないだろう。
かつて人間だった鬼舞辻無惨は、「人間は、愛する人をなかなか傷つけることができない」ということを“知って”はいた。しかし、その先にある感情を、無惨は知らないのだ。他人の命を踏みつける側にいる鬼の無惨は、愛する者を永遠に失ってしまった者の悲しみと怒りが分からない。
この「人間らしさ」については、耀哉の自爆によって、戦闘態勢に入った炭治郎と柱たちの表情を見てみると、よく理解できる。彼らの顔に浮かぶのは残忍さではなく、途方もない悲しみだった。取り戻すことができない失われた命への悔しさを、わが身の不幸として感じている。
「AERA DIGITAL」(2024年7月10日)より引用
愛情ある生き方は美しい
「愛する」ことを知らず人を喰らう鬼と、愛情の深さから自らの命を賭して鬼と戦う人間。
まさに、我欲VS愛情ではないでしょうか?
多くの人が「鬼滅の刃」に共感する部分が人間の愛情にあるのではないでしょうか?
現代でも我欲による戦争が続いています。
漫画では、悪の本体が滅びれば悪は永遠に続かずに終わります。
現実には力で力に対しても、戦いは続きます。
人間の我欲をなくすにはどうするか?
いろいろ考えは尽きませんが、
作者の「吾峠呼世晴(ごとうげこよはる)」さんは何を伝えたくて書いたのでしょうか?どんな資料をもとに物語を考えたのでしょうか?
多くの人の心を掴んだ内容に、人が求める普遍的なものがあるのだとも思います。
はっきりしているのは、「愛情」を中心とした生き方は美しいということですね。
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